主題:無知がもたらす結果

聖句:歴代史下35章20節~23節

歴代志下35章20節から23節

『このようにヨシヤが宮を整えた後、エジプトの王ネコはユフラテ川のほとりにあるカルケミシで戦うために上ってきたので、ヨシヤはこれを防ごうと出て行った。しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互いに何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、姿を変え、神の口から出たネコの言葉を聞きいれず、行ってメギドの谷で戦ったが、射手の者どもがヨシヤを射あてたので、王はその家来たちに、「わたしを助け出せ。わたしはひどく傷ついた」と言った。』

 

 

この聖句の主人公、「ヨシヤ」をご存知でしょうか?

紀元前6世紀頃、「南ユダ」に彗星のごとく現れた有名な国王の名前です。彼は、熱心に神様を信じる、善良な人格を持つ王として、国民に厚い支持を受けていました。全盛期を謳歌していた彼は、ある日突然、敵軍の流れ矢が急所に命中し、あっけなく死んでしまったのです。

 

彼は善人でした。日頃の行いは良かったはずです。信仰にも熱心でした。それでも、神様は守って下さらなかったのでしょうか。何故、素晴らしい人格者であった国王が、こんな残念な最期を迎えねばならなかったのでしょうか。今日は、その答えを解き明かします。

 

当時、ヨシヤ王が治めていた南ユダには神様が愛するイスラエル民族が住んでいました。南ユダには悩みがありました。当時の周辺諸国であったアッシリア帝国、バビロニア帝国、エジプト等に比べると、とても弱小だったのです。そのため、常に外国からの侵略の脅威にさらされていました。

ある日、隣の大国エジプトが、バビロニア北方のカルケミシへの侵攻に乗り出したという噂がヨシヤの耳に入りました。両国の間に位置する南ユダは、非常なジレンマに陥りました。

なぜなら、自国では手に負えないカルケミシが大国エジプトに撃たれれば、彼らの脅威は一つ減ります。それは、喜ばしいことです。しかし、エジプトがカルケミシに到達するためには、必ず、南ユダを通過しなければなりません。エジプト軍が南ユダにも入ってくるということは、南ユダまでも侵略される恐れもあります。そこで、南ユダはエジプトに対抗し、戦闘態勢に入りました。

 

  1. そのことを知ったエジプトのネコ王は、南ユダに使者を送り、エジプトに対する武装を解くよう、ヨシヤ王に促しました。聖書に書かれているとおり、ネコ王の目的は、ただ、彼らに敵対するカルケミシへの進攻であり、通過国となる南ユダをも侵すものではなかったからです。同国への進攻は神の命であり、それを邪魔する者、すなわち神に逆らう者は滅びに至るから、ヨシヤ王に早く南ユダの武装を解除するよう通告したのです。

 

ネコ王からの伝達を受けた善良なヨシヤ王は、即座にその通告を信用し、安堵しました。しかし、一瞬、ネコ王を疑う心が生じたため、彼はどうしても引き下がることが出来ませんでした。また、自ら一般兵に交じり、前線で戦い続けました。そしてある日、敵の流れ矢に当たって、死んでしまいました。

 

突然の国王ヨシヤの訃報に、国民は慟哭し、悲しみに打ちひしがれました。彼の死にあまりにも衝撃を受けた預言者エレミヤは、その嘆き、悲しみを「哀歌」として綴りました。旧約聖書に収められています。

 

なぜ、神様を熱心に信じ、善良に生きていたヨシヤ王が、無残な結末を迎えなければならなかったのでしょうか?

 

実は、このエピソードは、こんにち神様を信じ、主を信じるすべての人々への教訓の御言葉でもあるのです。

 

ここには、神様をいくら熱心に信じていると言っても、神様がどのように働かれるのかを知らなければ、無知によって滅びることもあるし、神様の心、神様の計画を知らなければ、正しい判断が出来ず、誤って無闇に行動した結果、死に至ることさえあるということが書かれています。ある時は、肉体が死ぬこともあり、ある時は信仰が死ぬこともあり、さらには、霊魂が死に至ることもあります。

 

神様は私たちの望みを叶えてくださりますが、いつ、どのように叶えてくださるのか、実際のところ、私達には、前もって知る術がありません。しかし、後になって、何かが成された結果を見て、結局は自分の望みが叶っていたということが悟れる時があります。

 

今も昔も神様は、誰か人を通して、私達の望みが叶うように働きかけ、それが御心なら、必ず実現するようになさいます。それが身近な人の場合もあるし、全く想像もつかない人の場合もあります。神様は万物を通して働かれることもありますが、基本的には、その時にふさわしい人を通して働かれます。これが神様の方法です。すなわち、神様は、人を通して歴史を成してこられたし、今もそうだ、ということなのです。なぜなら、私達人間こそが歴史を成す主人公、言い換えると、【核心】だからです。

 

神様を信じ、愛するヨシヤ王は、常に「南ユダが他国の侵略から守られるように」と切実に祈っていました。祈りを聞かれた神様は、ある日、エジプトのネコ王に啓示を与えて、元来自国の敵でもあったカルケミシへ攻め入るようにさせました。神様はこのように、自分が敵だと思っている人を通して、間接的にでも、私達の祈りを聞き入れてくださいます。

しかし、ヨシヤ王はネコ王の言葉を信じず、その時は神様に祈り尋ねることもせず、むしろ自分自身の考えに固執し、エジプト軍に攻撃を仕掛けて不幸にも死んでしまいました。人々は、ヨシヤ王の死を嘆き悲しみましたが、エジプト軍が南ユダには留まらず、ひたすら北に進軍し続ける様を見て、彼らが自分たちを滅ぼしに来たのではなかったことを悟るようになりました。その時には、一層ヨシヤ王の死が悔やまれたことでしょう。

 

この話を通して、私達は、自分の無知によって、戦わなくてもいい戦いをしていないか、または、持たなくてもいい考えや感情を勝手に持って悩んだりしていないか、生活の中でいつも考えて、分別することの大切さを学べると思います。

 

無知は、ignorance(名詞) と英訳されます。無視、教養がないこと、という意味でも使われます。神様は、前もって、ヨシヤ王にネコ王の使者を通して、武装を止めるよう通告しました。しかし、ヨシヤ王はそれが神様からのメッセージだったにも関わらず、祈って確認もせず、その通告を無視しました。神様が、そのように人間を通して自分に働きかけられるということを知らなかったのです。そして、災いに遭って死にました。

 

本来、神様は常に私達を助けようと、救おうとしてくだっています。その愛を忘れてはなりません。難しい問題に直面した時は、周囲の人と無闇に争わず、自分勝手な思い込みと戦わず、謙虚になって、祈って神様にその答えを願い求めましょう。答えを得たら、感謝し、喜んで、人生を熱心に生きて行きましょう。

 

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